節目

教育

3月は、学生たちにとって節目の月である。

日本の現在の教育システムは戦後から数えても100年にも到達していない。

そんな短い期間の中で、何か「正しい」と思わされる箱の中に入れられ、比較させられてきた。

今の時代は、SNSによる比較がさらに激化しており、箱の外でも比較をしてしまい、何かと息苦しさを感じるのではないだろうか。

一生懸命周りが適応していくレールの渡り方を見よう見真似で渡っていき、少しはみ出ると何か間違った人生を歩んでいるような感覚にさせられる箱から出てみると、なぜか「どのようにレールを作ってきたのか」を問われてくる。レールを上手くわたってスゴイと言われたのに、社会は問う。君は「何者」かと。

これでも昔より生きやすくなった。

これでも昔より認められるようになった。

ほんとうに?

確かに戦争に巻き込まれていない時代に生まれたことは幸運であり、感謝すべきことではある。

だけど、なぜ息苦しく感じてしまう?

SNSで私らしく生きることを全面的にアピールされ、それを見ては劣等感を感じる。

「あなたはあなた自身を愛していないから劣等感を感じているのよ」

心理学を学んだという人が画面の向こうから語り掛けてくる。

本当に?

私は私を愛している。

だけど、比較をしてしまうことだってある。落ち込むことだってある。

心がすり減ってしまう。あぁ、なんでこの国は…。そう嘆きたくなってしまうことだってある。

しかし、この日本という国は幸せな国である。

ご飯がおいしい。何か落とし物をすれば、届いていることが多い。

おもてなしの精神。素敵である。

ある国の人は言う。「日本人」に生まれるなんて羨ましい。

「日本人」のパスポートは、ほとんどの国に行ける。いろいろな挑戦が出来るじゃないかと。

ハッとさせられる。

そう、それなのに…。

幸せな国で生まれているはずのに自殺率が高くなっている不思議な国なのだ・・・。

SNSを開き、比較をし、お前は「何者」かと問われる。

あるものは「酒」に逃げ、あるものは「ギャンブル」に走り、あるものは「恋」に依存する。

それでも日本社会は問いかけてくる。

「お前は何者だ?」

それを知ろうとすることが「教育」のあるべき姿なのに、「教育」を受けたから「何者」かを語れるだろうと強制してくる。

正直言うと、うんざりする。死ぬときに何者かが分かればよいじゃないか。

そうやって人生は紆余曲折を経て、隣に座っている人と自分語りをしあおうじゃないか。

それを許してくれる社会システムの実現を願いながら、私に出来ることは

この社会は比較にまみれているけれど、少しの劣等感と、少しの話相手と、少しのお金があれば

自由に生きることは可能であることを身をもって伝えることだと思っている。

先生。それって「幸せ」になれますか?

「分かりません…だけど、、、」

学生の皆さん。卒業おめでとうございます。

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