好きが分からない

生き方

ある男子たちとの会話で、恋愛話をしていたのだが、失恋したら飲みにでもいこうという安易な約束をするとともに、恋愛がそもそも始めることが難易度高めだよね~っていうワードに対して「僕は好きというのが分からないんですよ」と言って、時間の関係上深ぼることが出来ないまま終わってしまった。

むむ?

これは深ぼっていないからかもしれないが、「好きが分からない」って本当なの?って思った。

ただ、実は筆者も、この言葉を言われて別れることになった恋愛がある。

つまり「好きか分からなくなった」という言葉を言われたということだが、好きが分からないという状態が、私には理解が出来ておらず、「好きか分からない」=「嫌い」と言いにくい状態なのでは??いや、違うか。「好きか分からない」=「関心がもてない」ということなのかもしれない。

さて、ここで、ある男子のセリフ「好きが分からない」と言っていたが、本当か??と疑問がわいている。

※ここからは、少しパンチのきいた。つまり「下ネタ」的な要素を含むので苦手な人は読まないでほしい。。。。特に、筆者のことを知っている人物が、この記事を読んでいて勝手なイメージを崩してしまうのであるならば、それは筆者ともう少し深い会話をしてから読んで欲しい。(まぁ浅くていいんだが、勝手な理想的な像を描いて、あーこういうの書く人なのか…といった勝手に批評しないで欲しいということである。)

さて、男子の「好き」というのは、割と「性的」な魅力に左右されるのではないかと感じている。単純に「顔が可愛い」「スタイルが良い」とか。ただ、まぁそれだと割と「おさるさん」と言われても仕方がないので、もう少し深ぼるつもりである。

恋愛こじらせ系の筆者としては、恋愛Youtuberなどの語りを暇なときに聞くのだが、そこで言っていた言葉が割と納得感があった。

「恋愛は、この人になら話せることが話せたときに発展する可能性がある」

なるほど、確かに幼少期に抱えてしまった傷や、中高生に感じている好きなものを好きと言えないものが共有できた異性は貴重なのかもしれない。(例えば、アニメのキャラに恋をしていたり、BL系に興味があったり、本気で勇者になろうと思ったり、、、何か世間から引かれそうな要素のもの??⇒これは筆者の主観であるから、好きなものを否定したいわけではない)

つまり、恋愛に発展する要素は

①:性的な魅力(男らしさ、女らしさ)にお互いひかれたとき

②:コンプレックスを補完してくれる存在と関われたとき

の二つに大きく分かれると思っている。

①に説明は不要だろう。価値観がバラバラなので、何か良いと思ったものに突き進む勇気をもったものたちが出会える世界だと思っている。つまり面倒くさい言語化を行う前に「何か良い」というものに突き動かされて、告白という行動が出来る勇気をもったものこそが立ち会える場なのだと思っている。(筆者は、その勇気を持つ前に傷を負ってしまったがゆえにこじらせる原因になったのかもしれないが。。。)

②については、解像度をあげるために例を二つぐらい考えてみた。

(例a:私は恥ずかしがりやで、誰かと関わろうとするのが苦手。だから、サッカー部の〇〇くんのような明るい人を好きになった。)

(例b:自分なんて…と思っていたが、好きと言ってくれる人が現れたから好きになった)

ここらへんが筆者にとって解像度が高い具体例なのかなと思っている。

特に b は昔の自分であったりもする。

「俺なんかが女の子を好きになったらキモがられる、、、付き合ってくれるわけがない」と自分に対して認知をしていたが、それを覆してくれる誰かがいてくれるはずだと信じていた。

つまり「何者でもないあなたを、私は無条件で関わり、愛します」といった存在を求めていたということだ。

しかし、それは幻想であり、自分の認知を正さない限り、それは相手を無意識に縛ろうとしている。つまり愛ハラスメントになる。これは無意識でやっていたことが分かった。

もう少し解像度をあげるために例を出すとすれば、記念日である。

「記念日は祝いあって当然である」といった謎の制約。お互いが約束したわけではない「記念日を祝う」習慣が少し面倒くさいことだと気が付く1年以上の付き合い。しかし、どちらかが辞めようと相談できない限り永遠につづく、何か「やらなければならない」行事。

「好き」という状態は、当たり前のレベルを上げてくれる魔法の力がある。

この記念日という冷静に考えれば面倒くさい行事を大切にするには、ある程度の覚悟と、お互いの状態を支えあうことが重要だろう。なにせ「面倒くさい」という本音が顔を出すのだ。そういったときに「相手が喜ぶから」となれる恋愛感情はスゴイのだろうが、30代をむかえて、ようやく自分の愛ハラスメントをしていたことに気が付いた自分は大きな失敗をしてしまっていた。

記念日を祝いあうなんて面倒くさいことだと自分でも認知していたが、それを話しあう行動よりも、祝うという行動で解決していたのだが、相手から面倒くさそうな対応が返ってきたときに、大きく心が動揺してしまったのだ。

「え…この人は自分のことを好きでいてくれないのか?」といった愛ハラスメントを起こしたのだ。今、冷静に分析をすれば相手はただ「面倒くさい」だけだったにすぎない。しかし、祝った自分がいるのに、祝ってくれない相手がいるなんて「不公平」じゃないかと思ったのだ。

そう。彼女は「好きが分からない」となっていたのだ。

この状態になっていた彼女を深ぼる前に、自分は「この人は無条件で自分を愛してくれる人ではないのか…。。。この人も違った。。。」といった結論に達していたのだ。

もしかすると「好きが分からない」といったものには、単純に面倒くさいといった状態がそこにあったのかもしれない。お母さんや、お父さん、兄弟のことが好きですか?と聞かれたら、「好きか分からない」と答える人だっているだろう。しかし、「嫌い」ではないのだ。どちらかというと「無関心」でもあり、「愛」でもある。祝おうと思ったときに祝えばいいし、親の誕生日や兄弟の誕生日を心の底から祝うといった行動を毎回行うのは、それは割と筆者にとっては想像が出来ない家族像であったりする。

そう、私は私を愛せていない。ミセスが採用している歌詞とは真逆の行動を実はしていたがゆえに、こういった無関心という状態が「愛されている」と捉えられない状態を作っていたのだ。

ただ、これは少し残酷な認知かもしれない。(筆者にとっては真実とさえ思っているが…一応、認知という言葉にしておく)

親の存在は「愛」というもので間違いなく繋がっている。幼少期から無条件で「あなたは大丈夫」と言われるほど「愛」で繋がれると思っている。しかし、親も人間。自分で自分を愛しているというバフ状態を作れない限り「我が子の将来」に不安を覚える。言葉で書くと合っているか怪しいが、「どうでもいい」となれない親は、自分の安心のために、我が子に求める要求値が大きくなる。それは、割と自分では認知していなかったコンプレックスというものが、子どもを通して教えてくれたりする。そして、我が子も漏れなくコンプレックスを負い、それを誰かに補完してもらうために恋愛をする。しかし、その恋愛は、ただの「ごっこ」にすぎず、誰からも自分を愛してくれる存在はいないという状態に出会うのだ。それを当たり前だが苦しいと感じる。何せ、親からもらえていたと思っていたが、実は足りていなかった「愛」というものを、相手に求めるが、それは実は相手から与えられるものではなく、自分で見つけるものだからである。

しかし、、、。最近では、そういった自分で自分を愛する状態が作れてしまうと「誰か」からの補完を求めなくなってしまう。つまり「恋愛」というものを必要としなくなってしまうのだ。

だから、考えすぎるということも良くないのかもしれない。。。たまには誰かに甘えていける自分も意識的に作ってみることも大切なのかもしれない。

ただ、ここまでの言語化をわざわざしている人が、それほど多くいるのだろうか。というより、そこまで「恋愛」というコスパの悪いことを面倒くさがらず言語化をして楽しむ人がいるだろうか。

若者の恋愛離れというワードが飛び交うが、それは自分で自分を愛する技術が高まったというよりも「傷を負う」「誰かに補完してもらう」ということで、実は自分で自分を愛していない現実に出会うことを恐れていると思えるのだ。。。

どうすれば自分で自分を愛することが出来るのだろうか。これは認知することから始めるしかないだろう。それはうまくいかなかった人間関係からしか出会えない貴重な認知経験だと感じている。もちろん他責にして終わる人もいるだろうが、他責で終わったものは、また同じように人間関係をこじらせていく。思考実験では出会えない、勉強だけでは出会えない、本やドラマ、音楽からでは出会えない、人間関係の失敗から考えさせられる、この面白い経験は、ぜひ体験していってほしい(人間関係強要マッチョおじさんの、割と恐ろしいメッセージをここで書いている気がするが)

さて。恋愛がうまくいっていれば、どうでもいいのだろう。

しかし、うまくいっているというのはどういうことだ?

「どうでもいい」となれていることだろう。

相手が喜ぶ顔が見たいから行動している。ただそれだけです。別に、それで「ありがとう」と言われなくても、したくてしているので。

って本気で言えるのだろうか。

書いていても、やはり自分はまだまだモンスター(愛ハラスメントを起こしそう)だと思ってしまう。「やってあげる」ことに対して、見返りを求める感情が顔を出すので。。。

しかし、自分で自分を愛するバフ状態を意識的に作れていけば、それは誰かを「愛する」ということが出来るのかもしれない。

そういった状態の自分に対して、誰かがインタビューをしてきたとする。

「なんで他人にそこまで出来るのですか?」

その問いに、答えるとすれば「どうでもいいと思っているかじゃないですか」という言葉が言えるようになれば、それは「愛する」ということが出来た証拠なのかもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました