待って、その人は他人なんだよ?

生き方

他人は変えられない

人間関係に悩む人は、いつの時代も多い。この記事に出会ったあなたも、おそらく過去、もしかすると現在も、ある人との関係性に悩んでいる人ではないだろうか。

自由な人生を送るためには、煩わしい人間関係とはおさらばする必要がある。そんな風に思った人もいないだろうか。それは本人が誰とも関わらず表面的な付き合いを好み、一人で極力生きていくということを覚悟しているならば良いだろう。

しかし、大多数の人は違うのではないか。

自由な人生を送るイメージには、好きな人とコミュニケーションをとりつつ、すべての出来事を楽しみながら進んでいくような、もっとプラスなイメージを想像しているのではないだろうか。

勘違いしないでほしいのは記事主は「誰とでも友好的なコミュニケーション」を取ってほしい訳ではない。あなたを無自覚に傷つける人や、あなたが一緒にいて心が下がるような人とは、すぐにでも表面的な付き合いまたは、縁を切るという行動を取った方がいいだろうと思う。

それを分かったうえで、あなたが大切にしたいと思う人とのコミュニケーションで気を付けてほしいことを書いていきたいと思う。自分に気づきが生まれて、少しでも自由な人生を送る処方箋になることを願う。

さて、前置きが長くなってしまったが、まずコミュニケーションにおける気を付けるべきポイントは「他人は変えられない」という点である。先生と生徒の関係でもそう。先生は生徒を変えられると思っている人がいる。それは幻想であることを自覚した方がよい。ただ、クラブ指導や教室の管理的な指導をする人などは、この勘違いをしてしまう人が多い気がする。「私の前では、生徒たちは話を聞く」「私が教えるから成績が伸びた」「あの先生は、緩い先生だから荒れる」などなど、教育現場では口にはしないが思っている人が多いのではないかと記事主は感じる。(勝手に思って、勝手につらくなっているだけかもしれないが…その話は後々過去話で書いていこうと思う)

さて、なぜそういった勘違いが生まれるかというと、「指示する」人よりも「指示される」人の方が「楽」をしていると気が付いていないからだと感じている。いやいや、指示されると反発したくなるから、楽とか思っていないでしょ。そういった声が聞こえてきそうだ。

具体的な例を出そう。「~をしないでくれ」「~をしなさい」二人の間にある程度の力関係が存在すると(上司と部下みたいな)上司は部下に仕事の指示をする。部下は指示を貰う分、何をすべきか自分で決めなくても定まる。そこで、部下は仕事に進む。。。この部分で部下は「楽」をしていると自覚をした方がよい。指示をされたときに、自分がどういった行動を考え、どのように仕事に取り組むかを上司と相談をするなど、共通認識を得る前に動くだろう。それは「楽」をしているのだ。

そして上司から見れば、部下の仕事の向き合い方をコントロールすることはできない。部下が思うような仕事の成果を出してこないことに上司は段々と悩みだす。(逆に成果が出ていれば、自分のマネジメントが上手くいっていると勘違いをする。)そこで、指示の仕方を変えたり、その人自身のモチベーションなど、その人を変えようと試みる。「なんでわかってくれないんだ」そういった上司の叫びと「あいつは何を言っても無駄だ」といった諦めの声が聞こえ、部下は部下で「こっちはこっちで一生懸命やっているのに、なんでわかってくれないんだ」「上司の指示が悪いし、これをやる意味が分からない」といったズレが生まれる。

これは二人とも「相手を変えよう」という思いが出てしまっている。ズレが生まれた原因は、お互いにあるのに、お互いに「相手を変えよう」と必死になる。まずは、他人は変えられないと自覚し、なぜコミュニケーションにズレが起きたのかを自分の心に問いかける必要がある。

そうすることで、相手の悪い部分を多く見つけようとする自分と出会ったりもするだろう。しかし、冷静に考えれば「指示をもらう」ことを当たり前とし、考えずに動いている自分の責任に目を向けなければならないことに気が付くだろう。その過程を「楽」してはいけない。もちろん、部下は未熟で当然である。だからこそ上司が、部下の考えを事前に聞き、どんな思いで仕事に取り組むのかをマネジメントする必要もある。それこそが理想の上司と部下のコミュニケーションなのだろう。ただ、簡単な話ではない。時には、部下の方が上司のマネジメントに失敗していることに気が付くこともあるだろう。それを部下だから言えない。と思った時点で、それは表面的な付き合いに変わり、問題の先延ばしをすることに覚悟しなければならない。その覚悟が、自分にとって不利益なものにならないと思うのであれば行動すればよい。(覚悟をしたのであれば愚痴や気持ち的に嫌になってはいけない。そんな自分を作らなければ自由になれないのだろう)どうせ他人は変えられないのだから。

ただ、仕事の面でいえば、先延ばしにしては全体利益にならないことは容易に想像がつくだろう。しかし、気が付いたからといって無茶な行動をする必要はない。単に自分の仕事の進め方を上司に相談することでコミュニケーションをはかり、お互いどんな気持ちでいるのか確認をすれば、上司は上司で気が付くかもしれない。難しいのは、それでも相手が変わることを期待してはいけないということだ。やはり、変わらないことだって多い。その場合は、自分の行動方針を決めて表面的な付き合いに移行すればよいだけである。自分が出来ることを試して納得したうえで、相手との付き合い方を決めれば相手に変な期待をせず悩まされることから解放されるはずだ。それが出来れば、より自由な人生を生きられると記事主は考える。

私の子どもだから? いいえ、他人です。

先ほどの例は、上司と部下という仕事上の人間関係を例にしていたが、親子関係だって例外ではない。むしろ親は子どもを「変えられる」と思っている人が多い気がする。私の子ども?その通り。ただ、あなたではない。あなたの子どもで間違いないけれど…他人なのだ。それを自覚していない親は多いと記事主は感じている。特に中学生を育てる30代後半から40代の親は勉強しない子ども、言い換えるならば自分の思い通りに行動しない子どもに対して、言えば変わると本気で思い、言っても変わらない子どもに悩みを抱える人は多いような気がする。

さて、結局のところ「指示」をすることで「相手を変える」というのは成立しないことを理解したと思う。では、親子関係の場合はどうするか。それも同じように向き合うしかない。なぜ、そんな気持ちになっているのか寄り添い、それでも目指すべき理想を共有し、それに向かうにはどうするのかを話し合う。このしんどい作業を、繰り返し行わなければならない。時には思春期だから暴言をはかれることだってあるだろう。親の気持ちも知らないで好き勝手生きやがってと思うことだろう。ただ、相手も思っている。生んでくれと頼んだ覚えはない。勝手に期待をするな。そういった彼らなりのぐちゃぐちゃな感情が存在しているはずだ。

そして、親子関係は上司と部下と決定的に違うところがある。それは、向き合い続ける選択肢しか取れないということだ。相手は変えられない。変えようとしてはいけない。ただ、親子は表面的な付き合いといった覚悟をしてはいけないのだ。それは単に逃げているだけで、その覚悟によって自由な人生を生きていると精神的に思うことは到底無理な話である。いえいえ、そういう覚悟を決めて生きていますという人は記憶障害を起こしているか脳に重度な爆弾を抱えているのではないかと疑った方がよい。心の底から関係を切れるというのは、親と子という存在の時点で不可能だと記事主は思っている。なぜなら遺伝子レベルで自分の中に入り込んでいるのだから。無意識的に親という存在は子に入ってしまうのだ。もちろん、意識的に縁を切っている人は世の中にたくさんいるかもしれないし、これを読んでいるあなたも縁を切ったと思い込みたい人かもしれない。しかし、本当に自由な人生を送りたいのであれば、そのしんどくて逃げていたことから向き合う必要がある。その先にこそ、本当に解放されて自由な人生を送る一歩が踏み出せることだろう。

さて、少しスピリチュアルな方向にいったせいで、怪しさを覚えてしまったことだろう。話を少し戻すと、向き合い続けることを強制してしまったが、向き合い方は本人同士じゃなくても良いと記事主は考えている。相手を変えられないことは理解したけれど、私が向き合おうとしても子どもが向き合ってくれないことは多くある。また、子どもにとっても、親と向き合おうとしても親が高圧的な態度を取り、自分を変えようとしてくる。そんな事例はたくさんある。だからこそ学校というコミュニティに頼らなければならない。そして、先生も気が付かなければならない(自戒の念も込めて)。さらに、親も子も第三者に相談することは恥ずかしいことではないと自覚しなければならないし、学校というコミュニティも、もっと寛容で開けた場所でなければいけないと感じている。学習という一つのツールから、人は比較する自分と出会い、自分の存在意義を考え、そして悩み、自立することを覚える。それらの過程を雑にしてしまい「大学を目指すための訓練所」として学校を運営してはいけないと感じる。

親たちは学校に相談することを一括して「モンスターペアレント」と言われ、世間で騒がれたことを知っているから動きにくいかもしれないが、それは学校に「子どもを変えてくれ」という無茶な要望をしている人たちのことであり、子ども達と向き合うことを相談することはモンスターどころか理想的な親であると信じてほしい。何度も言うが「他人は変えられない」それは子どもであってもそうである。「変えられるのは自分だけ」それを相手に自覚させるには、向き合い続ける必要がある。(それでも変えようとしてはいけないという矛盾にぶつかるのだが…)

親と子は近い存在だからこそしんどい。だから頼っていい。先生でもいいし、おじいちゃん、おばあちゃんでもよい。大切なのは、自分の伝えたいことと相手の伝えたいことをすり合わせ、理想的な地点がどこなのかを探りあえる、そういった時間を作り出すことなのだから。それは第三者を介しても問題はない。一人で頑張ると、いずれ「なんで変わってくれないんだ」という気持ちが増幅し、悩んでしまい「他人は変えられない」ことを自覚することからスタートし直す地点に戻ってしまう。もっと、気持ちを楽に持ってほしい。そんなことを言っても第三者に頼れない人もいるだろう。そういう人は、こう思える自分を作ってはどうだろうか。「他人は変えられない」でも向き合い続ける。表面的な付き合いを覚悟するとは違う。だからこそ子どもを信じて、今はお互いが悩んでいる時期だから、少し放っておいて、向き合える時期がくることを楽しみにとっておこう。それは問題の先延ばしにすることと同じかもしれないが、表面的なそれとはわけが違う。何があったって味方ではいる…それぐらいの気持ちで過ごすと良いのかもしれない。

恋人、夫婦だから察しては無理

いよいよ、まとめに向かおうと思う。上司と部下、親と子。その中間にある、非常に難しくて甘くて切なくて憎悪も生むような関係こそ「恋人・夫婦」の関係だろうと思う。

上司と部下ほど割り切った関係(これは友人関係も含むかも)ではなく、親と子ほど向き合い続ける宿命ではないからこそ、「恋人・夫婦」の関係に生まれる問題は「察して」問題だと記事主は考える。

相手は他人ということは頭の中で理解しているけれど、好き同士が一緒の場所に存在しているからお互いがお互いの気持ちを語らず察してくれていると心のどこかで思っている。これが非常にややこしい。上司と部下みたいに割り切った状態が存在していれば、二人における理想的なゴール地点を話し合えるかもしれないが、恋人・夫婦の関係は自分のことを理解してほしいという欲求が出てきてしまう。それは一種の「相手を変える」という行動に他ならない。

「好き」という感情は、「自分を分かってほしい」という欲求を増幅させてしまうがために、上司と部下のような冷静な着地点を話しあえる時期にきたときには「好き」が冷めている頃だろう。不思議である。より良い関係値をむかえる準備が出来たころには「関係値を終わらせる」話し合いが起こっていることが多くあるのだ。

つまり、この難しい関係値を持続させるためには、お互いが「相手を変えることはできない」と理解し、好きという状態が保っていられるうちに、相手に自分の気持ちをきっちりと言語化する過程を繰り返し行うことが出来ないといけない。実はムリゲーに近い、超難解な問題である。なんせ、表面的な付き合いを覚悟してしまったら関係は終わるし、相手を信じて待つことを選択すれば容易に裏切られるだろう。そういう「上司と部下」や「親と子」とも言えない存在だと、まずは自覚しなければならない。

これを聞いて、めんどくさいと思ったかもしれない。そう、めんどくさいのだ。人間関係はめんどくさくて、それでいて自分の人生を豊かにするためには避けて通れないのかもしれない。特に「恋人・夫婦」の関係とは、一度でも無償に「自分」という存在を認めてくれたのだから、「自分を分かってくれた」喜びは一種の麻薬に似た作用を及ぼしているのだと思う。

そして、「相手は変えられない」と自覚していない人同士は失敗をする。「自分」を認めてくれていた存在は「自分」という存在を傷つけたり、「自分」という存在価値を低下させる存在に変化するかもしれない。それは、とても悲しいことではあるが、同時にお互いに学ぶチャンスを貰っている。自分という存在に向き合うチャンスをくれ、「相手は変えられない」という当たり前のことに気が付けるかもしれない。

恋愛というものに絶望し、もう経験したくないと感じる人もいるだろう。ましてや、恋愛なんてコスパが悪いと最初から切り捨てている人もいるかもしれない。もちろん、そういった人たちを変えたいなんて思わない。大いに結構だと思う。ただ、自分という存在と向き合い、どういう状態が幸せで、どんな人と歩んでいきたいか。そして、求めることは悪いことではなく、ワクワクすることである。そうやって人と人がめぐり合って、「自分を変えたいな」と思える出来事が起これば、それは素敵なことだと記事主は考える。

この記事が少しでもあなたにとって、「どんな出会いでも自分にとって意味がある」と感じる手助けになり、自由な人生を送ることが出来る一歩になれることを願っています。

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