「環境」が人を作るのか。人が「環境」を作るのか。

教育

1月も終わりに差し掛かり、いよいよ年度終わりが迫ってきている。学生の頃は、学年末テストが近いやら、春休みをどう過ごそうか、そういった毎年度起こるが、少し難易度が難しくなっていくそういったイベントごとに身を任せながらも楽しく過ごしていた。(もちろん、それなりに人間関係にも悩んではいたが…)

さて、教育現場に身を置くと、環境が人を作るのか、人が環境を作るのか。そういった疑問が出てくる。「優秀」な教員や生徒。が多いからリスペクトが生まれるのか。それとも、システムがリスペクトを生み出すのか。※ここでの「優秀」さは、変化に順応し、モチベーションを高く保ちながら他者貢献ができる人間のことを言う。

教育組織に属していると、システムを整えようと動くリーダーたちが多いと感じる。それは部分的に正しいとは思う。しかし、システムを整えたとしても、子ども達はそれほど変わらないという現実を見てきた。

課題の提出システムを変えたから、生徒全員がきちんと出すはずはない。例えばだが、そこに「恐怖」というものが混ざると違った状況を生むことは可能だろう。遅れたら「怒られる」遅れたら「怒鳴られる」そういった「恐怖」を混ぜていたのは昭和~平成初期にかけての教育だろう。いわゆるスパルタというやつだ。そういった、何か「痛み」というものが人を変えるきっかけにはなり得る一面があるが、リスクは大きい。今の時代には合わないことは明白だろう。

今の時代「権威」的なものに敏感である。「先生」というものから何か理不尽さが生まれると、到底受け入れられない子ども達が増えたように感じる。それは、SNSの普及から起こる「皆も言っているから」という言葉に力が付いたように筆者は感じる。(大体、皆って誰やねん。で済まされていたものが、今は本当にちょっとのことで署名活動的な行動を起こすような気がしている)

そういった「皆も言っているから」はブラック校則が良い例である。

前の職場では「ツーブロック」「インナーは白」「色付きリップの廃止」など、あらゆる外にはみ出そうとする生徒を押し込めようとするルールが沢山生まれていた。

指導する側も、本当に必要なのか分からず、御上の言うことには従うという精神で動いていた。

もちろん生徒は反発し、ルールを無視して隠そうと動くものが出てきた。それらを抑制できない教員に失望をする生徒と、そういったルールを作った御上に対する苛立ちや、ルールを無視した生徒に対する嫌悪感で毎日、誰かが傷を負っていた。

そういった状況が一変したのは、メディアの力である。意味のないルールを廃止するべきだと、各地の学校で運動がおこった。それにより、「皆が言っているから」廃止しようと、前の職場ではルールが改正されていった。

これは確かに良い面もあったが、筆者自身としては、そもそも「私立」という教育現場で、教育方針というものがありながら決まったルールをなぜ守れないのかが疑問でもあった。なぜ守られないのか。本気で生徒の質が低いせいだと他責にした時期もあった。偏差値という、何か特定条件下でしか役に立たないものを指標に、偏差値が低い学校は治安も悪いと決めつけてしまうことだってあった。

どうすれば、環境は良くなるのか。

優秀な人材を入れるまで待つのか。

それとも、優秀な人材を作りだすためにシステムを整えるのか。

そもそも教員は何をもって「優秀」な教員と判断されるのだろうか。

生徒もそうである。「優秀」はテストや成績が優秀であればよいのだろうか。

テストというものは、自分の立ち位置を知れるために必要なものであり、「優劣」をはかるものではないと思っている。

しかし、学校教育のテストは、やはり優劣を意識してしまう。似た年齢で、似た家庭環境を集めてしまう私立学校の特性上、嫌でも他人を気にしてしまうだろう。

そういった意味のない比較により、若いうちから傷を隠し、孤独になることを恐れるから似ている状況の誰かとつるむ。「優秀」とされる人物たちは、「劣等」とされる人物の気持ちが分からないまま、生存者バイアスを持ちながら学校生活を過ごし、「劣等」とされる人物たちは、当たり前のレベルをあげる努力をしないまま、流れに身を任せてしまうだろう。

それは成長を遠ざけてしまうのは明白ではある。ただ、この成長が止まることを「悪」とするのも違うのかもしれない。それは筆者の成長圧力を相手に押し付けようとしていることに他ならない。もっと自由でいいはずなのに、その自由さが心地よくはない。

私のいる環境は、自由さが担保されている。自由に動き、自由に考え、自由に巻き込もうとすることを許されている。しかし、不自由さを感じる。

これは資本主義に生きるからこその感じる部分かもしれないが、「自己責任」というものが前提にありすぎるがゆえに、誰もが誰かの助けにポジティブに動こうとは限らないという世界だからかもしれない。

自由さは素敵だが、他者に対しての行動が自分の利益に入ってこないときに関与していこうとしない人が多く感じる。それは、趣味のレベルなら良いだろう。趣味で何か楽しんでいるものに、いちいち自分から関与していったらキリがない。しかし、仕事となると別だ。

仕事というものは、誰かとの見えない協力が誰かを救えていることが大いにある。

分かりやすい例を出すとすれば、営業だけすごくできたとしても、売る物がなければ売り上げなんて生まれない。モノづくりがすごく得意だったとしても、言葉選びが下手であれば売れはしない。

そういった会社組織の協力というものは絶対に必要であり、その相互作用によって企業は大きくなっていく。資本主義社会だからこそ、より良いものを追求し、誰かの困っていることを解決するモノやサービスが生まれていく。それは素晴らしいことだと感じる。

しかし、教育の世界はそれほど単純な話ではない。何か達成すべきことを掲げるとゆがみを生み出し、何か成長を求めようとすると比較が生まれる。そして自由さを大切にしすぎると、無関心を生み出すのかもしれない。

教員のリーダーたちは、日々悩む。自由さを奪うことで、成長を促そうと、あるリーダーは強制力を、あるリーダーは報酬を、あるリーダーはコミュニケーションを、あるリーダーはビジョンを。

そういった、正解のない組織運営を、そういったリアルな場面を感じ取ることが難しい子どもたちを相手にしながらも、奮闘していく大人が増えていけば、それらを見て成長しようと頑張る子どもたちも増えるかもしれないと、安易な希望をここに書きながら、また教師として生活しようと思う。

リアルは残酷に見ようとすれば残酷であり、希望があると見ようとすれば希望があるように見える。私は後者を大切にしながら、演じる必要がある場面が来れば、演じようと思うのだ。

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