教育の力とは

教育

知識はAIに負ける

突然の質問であるが、教科を教える人間は必要なのか?

今や、Youtube、生成AIなどの活用によって、子どもたちの「わからない」に対するアプローチは教員よりも、圧倒的に分かりやすく文句も言わずに寄り添ってくれる。

そんな私たちは、いったい何を教えているのか?

日々の業務で、こういった疑問を忘れるかのように教壇に立ち今日も教えている先生は多いだろう。

ただ、そんな日々は一瞬で消え去るかもしれない。

生徒はだんだんと気がついているのだ。大人から学べる「知識」というものは、生成AIのような圧倒的な情報力の前では、小さなもので、どちらが効率が良いかは一目瞭然であることに。

私たち教員は、いや「大人」は、何を子どもたちに与えられるのだろうか。

これから求められるスキルとは

私は、ここ最近では知識というものを与えることに可能性を見出せなくなっている。

自分のレベルを打ち込めば、それに対して最適な問題をネットから出力できる時代は、あと10年も経たずに出来上がるだろう。もしかすると、知識をアウトプットする機会すら大幅に減っていく時代に突入しているかもしれない(例えばテストなどがなくなる)。

そんな時代で、私たちはいったい彼らに何を与えていけるのだろうか。

私が考えている教員の新しい形は、『リスペクト』である。

はじめに、この『』に入る言葉はマネジメントにしていた。しかし、マネジメントという視点も違うような気がしているのが最近の変化である。

マネジメントよりも、その先にあるリスペクト。リスペクトがあるからマネジメントではなく、マネジメントの先にリスペクトがある。ここでのマネジメントは、管理という意味合いではなく、もっと音楽ライブを作り上げるようなイメージである。教員集団が、生徒たちの心を震わせ、そして生徒たちはそれに呼応し、教育の効果が高まっていくような。。。そんな形へ。

「心(シン)」のリスペクトはサカナクションから学んだ

サカナクションに出会い、「仕事」という楽しさを追求する大切さを教わった。

一人で立ち向かい、良い授業を作る過程に没頭していた自分。

教壇に立って「教える」という形は、もう古く、今は自由に学ぶ時間をマネジメントすることが大切だと方法論にこだわっていた自分。

それらの考えは、山口一郎が語る「音楽」のすばらしさと「ライブ」に向ける想いを聞いて、変化が出てきた。

一人で授業は出来上がらない。生徒と作るものでありたい。

そんな大きい「つながり」を得るために教員集団が力を合わせる。そんな場面に立ち会いたい。

それを叶えるために「リスペクト」という形があるのだと思っている。

教員全体が「講義」という在り方にもう一度焦点を当ててみたり。

教員全体が「グループ」という在り方にもう一度思いを乗せてみたり。

教員全体が「生徒」という存在に感謝の気持ちを抱いたり。

年齢を重ねると、仕事への新鮮さは徐々に失われていく。

隣の芝生は青く見え、今の立ち位置に不満が出てくる。

これは、どんな人でも経験してくることだと思う。

自分が選んだ道であっても、自分が選んだ道を疑い弱音を吐く瞬間がいくつも訪れる。

だけれど。そうだけど。孤独ではない。

その一人一人が経験したことは、再現性がなく、唯一無二の経験である。

そんな経験をした人間は孤独ではなく孤高である。自分も孤高でありたい。

そんな孤高の教員集団が、新しい形へと導いていくのではないかと思っている。

「つまらない」と捉える前に

諸先輩方から30歳をこえると「いろいろな変化」が訪れると20代の時に熱弁された記憶がよみがえった。

確かに「いろいろな変化」があった。もちろん、身体的なものもあるが、もっとメンタル的な「勢い」みたいなものが減ってきたと感じる。

何かと向き合うことを「つまらない」という感情が顔を出す瞬間が多くなってきた。

それは経験からくる結果への予想がそうさせるのかもしれない。

「どうせ」といった言葉が頭によぎる。

しかし、その「つまらなさ」を脳が捉える前に、「なぜ」という言葉を使って向き合ってみると、年齢を重ねることが楽しいと思えてきた。

なぜ、孤独に感じるのか。

なぜ、結婚したいのか。

なぜ、先生なのか。

なぜ、言葉を残したくなるのか。

勢いは落ち着いたのかもしれない。しかし、勢いは「深さ」へと変化していき、そしてまた「自分の良さ」が広がっていく。

さぁ。自分を受け入れよう。

その先にリスペクトがあり、そして出会いがある。

そこにアイデンティティが生まれる。

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