精神世界は存在しているのだろうか。
運命論者ではないのだが。。。何か不思議な感覚を体験したことが私には、いくつもある。
教師を志すと心に決めたときに、高校3年生の数学を担当した先生が「教育大」出身ではなく「数学科大学」出身であったこと。それは私にとって、自分の道を暗示しているかのように、私も「数学科大学」としての道を挑戦しようと心が動かされた。
しかし、結果は失敗し「教育大」へと進んだ。そこで出会う仲間たちは、「数学」という魅力以外の多くのことに興味をもっていた。しかし、私は違った。その時の私は未熟で、偏差値教育が生んだ副産物、「優位性」という魔物に憑りつかれていた。「数学をしない教育数学専攻の人たち」を下に見るといった感覚は、おそらく無意識な世界で行っていたと思う。「こんな奴らが教師に向いているわけがない」そんな黒い感情が出ていたことだってある。「自分はお前らとは違う」そう言わんばかり、大学生の自分は「うまくやっていく」ペルソナをはがせないまま4年間を過ごした。
社会人になり、このペルソナは、いとも簡単にはがされてしまう。
教師として、いよいよ自分の表現が出来ると思ったが、教師として表現するソレは「自分」のものではなかった。誰かが「良い」とする方法に憑りつかれ、それを実行し、ルールを守らせ、なんのためにメッセージを子どもたちに伝えていたのかを分かっていなかった。「うまくやれる」と思ったペルソナははがされ、「お前には何もない」という悲惨な現実がはがれた素顔には書かれていた。
大義名分をかかげないと逃げられなかった自分は「世界一周」というものをかかげた。
逃げ。そう表現することが一番しっくりくる。「死ぬ」という選択が取れるほど、自分は強くもなく、諦めてもなく、弱くもなかった。だから逃げた。
この世界一周という選択は、自分が社会人になってお世話になった尊敬する体育教員が実は同じように20代で選択した行動であったことに運命を感じた。
その事実に心は救われた。私は、「逃げ」という選択が「攻め」という勘違いに書き換わっていたのだ。今だから「逃げ」という表現が出来るが、当時は後ろめたさと、やはりあの地獄な日々から一抜けできた、どこか「優位性」つまりは「お前らとは違う」といった心にへばりついたものがあったのだ。だから「攻め」という勘違いが出来たのは大きい。そうしないと世界一周に集中することが出来なかっただろう。
世界一周で、次に考えたのは「生き方」であった。つまり、自分はどうしたいのか。どう生きたいのか。自分と対話を繰り返し、紙に書き出し、教師に戻るのか、それとも別の仕事に就くのかを考えた。
船の中で、中学生の女の子と出会い数学を教えることがあった。
彼女は不登校という選択をし、おじいちゃんと一緒に世界一周をしていた。
彼女は「数学を教えてほしい」と頼んできた。私は、彼女に教えながら自分の人生は、やはり誰かに数学を教えることにあるのではないかと考えた。なぜ教員になりたかったのか、原点を振り返りながら、教えるという職業を手放さなかった。
そうすると不思議な縁が生まれた。
船で出会った人の中に塾を立ち上げようと考えていた英語の先生がいたのだ。しかも、同じ県内に。
私はボランティアでもよいから、一緒にやりたいとお願いをした。
これが、本当に実現するとは思わなかった。船を降りた後に一緒に塾をやるようになったのだ。
そして今の職場との出会い。これも不思議であった。実は、自分の生き方や働き方を書きだしていたのだが、自分が書きだしたものが実現したかのように今の職場環境は恵まれている。
しかも、船を降りた時期は8月という中途半端な時期で、雇用保険制度を上手く活用したい思いから直ぐには就職活動をしていなかった。そのため11月という中途半端な時期に募集を見ると、前の職場か今の職場しか募集が出ていなかったのだ。導かれるかのように、ここにたどり着いた。不思議な感覚である。
さて、これは偶然起きたものに自分が勝手に意味づけしたものだろうか。最近まで、ご都合主義な自分勝手に妄想した嘘のようで本当な話として扱っていたが、アニメの「チ。」を見てから違う気がしてきた。
ユングという世界三大心理学者の一人は「シンクロニシティ」という概念を提唱している。まさしく、今のような話は、偶然で終わらせるものではなく実は私たちは深い場所でつながっているから起きたことだという考えである。
このようなスピリチュアルな話は、やはり受け入れがたく、そして使い方を間違えると自分や他人を壊すことになるかもしれない。だから慎重に向き合い、扱わなければならないと思っている。
しかし、「深い場所」という私たちには認識できない世界でつながっているという言葉は、この世界で生まれた意味を与えてくれる。私が選んだ教師という選択により、誰かの人生に意味を与え、そしてまた私にとって運命的な何かを運んでくれるのだろう。
そう思うと怖くない。
何が?
「死」すら。
いや、それは危ない。
そう、こういうことになるから危なく、慎重にならなければならない。
ただ、その考えに「美しさ」すら覚えてしまう自分もいる。これは「感動」なのかもしれない。
もちろん、自殺願望があるわけではない。ただ、自分と違う考えをもつ人と会話することすら愛おしい感情が出てくる。それは悪いことではない気がする。
しかし、改めて思う。考えを巡らせすぎるのも危険。結論を求めるのも危険。だけれど、欲望と折り合いをつけながら、たまに出会う「美しさ」に感動しながら、今日も教師をしようと思う。



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